ヨルダン川西岸地区のマサーフェル・ヤッタで生まれ育ったパレスチナ人の青年バーセルは、イスラエル軍の占領が進み、村人たちの家々が壊されていく故郷の様子を幼い頃からカメラに記録し、世界に発信していた。そんな彼のもとにイスラエル人ジャーナリスト、ユヴァルが訪れる。非人道的で暴力的な自国政府の行いに心を痛めていた彼は、バーセルの活動に協力しようと、危険を冒してこの村にやってきたのだった。
同じ想いで行動を共にし、少しずつ互いの境遇や気持ちを語り合ううちに、同じ年齢である2人の間には思いがけず友情が芽生えていく。しかしその間にも、軍の破壊行為は過激さを増し、彼らがカメラに収める映像にも、徐々に痛ましい犠牲者の姿が増えていくのだった―。
パレスチナの現状を決死の覚悟で届けようとした、命懸けの記録をどうか心に留めてほしい。
観る側にも相当な苦痛を強いる。だからこそ観るべき映画だ。
そこに映し出された、パレスチナのあまりにも過酷な現実。
あの「10月7日」以前にして、このありさまだ。
何とかしなくてはいけない。
しかしいったい何ができるのか。
パレスチナ人とイスラエル人の映画作家の間に芽生えた友情と理解と信頼だけが、一筋の光のように思える。
そういう残酷さがこの映画のすぐそばにある。
そこから先を委ねられている。
「ノー・アザー・ランド 故郷は他にない」はヨルダン川西岸地区で進行し続けてきた苛烈な人権侵害をかつてない臨場感で捉えながら、パレスチナ/ユダヤの2人の青年を通して、決して相容れないはずの魂を架橋しようとする。
国際社会で、街で、家庭で、ソーシャル・メディアで、さまざまに分断された私たちは、もういちど互いに橋をかけ合うことを夢見る。
これを民族浄化と呼ばず、なんと呼べるだろう。そして、問われる。この悲鳴に、無視を決め込む世界でいいのか――。
だが目を逸らすという行為は、誰かから責められない程度にじんわりと戦争と虐殺を肯定していくことではないのか?
この作品にも、つい目を逸らしたくなることが詰まっている。
でも、私達はきちんと向き合わなければならない。
戦争を理由に、あらゆる暴力と不条理が肯定されてはいけない。
尊い命が奪われてはならない。戦争と虐殺にNOを言わなければならないのだ。
相反する出自のふたりの命をかけた友情にパレスチナとイスラエルの和平を夢見てしまうのは、そこから遠く離れて暮らす者ならではの「お花畑」なのか。
そうではないと信じたい。ならば、映画を観終えたら始めなければいけないことが、私たちにはあるはずだ。
そして今この瞬間も、パレスチナの破壊と侵略が続いている。
祖父母の代から無視されてきた声をやっと聞き、何が起きてきたかを知った私たちが、どう行動するのか。
この映画が希望となるかどうかは私たちにかかっている。