「国境の檻~森の奥でいくつもの命が人知れず消えている
村山祐介(ジャーナリスト)
森で救助されたイラクのクルド人16人=2021年11月9日、ポーランド東部ナレウカ郊外
老婆はすでに歩けない状態だった=11月9日、ナレウカ郊外
本作品の舞台となったポーランドのベラルーシ国境付近で2021年冬、私は1カ月半を過ごした。
本作にも登場する支援ネットワーク「グルーパ・グラニーツァ」(ポーランド語で国境グループ)からスマホに届く位置情報をもとに森に入り、国境を越えた移民・難民を取材するためだ。11月9日夕方も、ナレウカという村から針葉樹林に足を踏み入れた。
ぬれた落ち葉ですぐに足がもつれた。30分ほど探し回った先に人影が見え、私は小走りで駆け寄った。
うずくまっていた人の輪に、母親に抱かれた生後数カ月の赤ちゃんがいた。3歳くらいの女児が大きなクマのぬいぐるみであやしている。ボランティアが携行食を渡すと、少年たちは「サンキュー、ベリマッチ」とぺこりと頭を下げた。気温は3度だが、着ているのは普通のダウンジャケットだ。クルド人16人で、子どもが9人もいた。
長いあごひげを蓄えた家長格のアンワールが言った。
「食料も水も尽きて、赤ちゃんのミルクがいくらか残っているだけでした。この2日間何も口にしておらず、救助が3日後なら死んでいたかもしれません」
イラク北西部のクルド人自治区にあるドホークに住む彼らは、過激派組織「イスラム国」(IS)の支持者から殺害予告を受けていた。SNSには欧州行きの新ルートとして、ベラルーシのビザを手配する業者の広告が出回っていた。トルコから飛行機でベラルーシの首都ミンスクに入り、その日のうちにポーランドとの国境の森に向かった。
ベラルーシ当局の手助けで国境のフェンスを通り抜けた後、約2週間で国境を8回、「プッシュバック」(押し返し)されたという。
「8回も?」と私が驚いて聞き返すと、グルーパのアラビア語通訳が説明を補足した。
「そんなに多い方ではありませんよ。30回押し戻された人もいましたから」
アンワールは身ぶり手ぶりで訴えた。
「保護してくれるならどこでも構いません。安全で平和に暮らせる場所が必要なんです」
ほどなくポーランドの国境警備隊が到着し、歩けなくなっていた老婆は担架で運びだされた。日が暮れた後の森は驚くほど暗く、気温は午後6時前、0度を割り込んだ。
森の中で保護を求めるシリア人4人=11月6日、ナレウカ郊外
4人の身柄を確保するポーランド国境警備隊員=11月6日、ナレウカ郊外
ベラルーシからポーランドにシリア人やイラク人、アフガニスタン人などの密入国が急増したのは21年8月のことだった。 ポーランド政府は対立するベラルーシの大統領ルカシェンコが森に放った「移民兵器」と位置付け、国境の向こうに強制的に押し返した。そしてベラルーシの国境当局が再びポーランド側へ暴力的に押し戻す。氷点下の森で行き場を失い、グルーパの集計では24年3月までに59人の遺体が見つかっている。
森の奥で消えかけた命を救えるのは、地元住民だけだった。
ポーランド政府が出した非常事態宣言で、国境から3キロ圏内は人道支援団体すら立ち入りが禁じられていたためだ。地元の英語教師カタジュナ・バッパ(39、通称カシャ)は、8歳と9歳の2人の娘を寝かしつけた後、当局に見つからないようにヘッドライトを消した車で連夜、森に入っていた。
夜中や早朝、救助通報がスマホに届くたびに、選択を迫られる。見なかったことにしてベッドにもぐりこむのか、拘束される危険を覚悟で暗闇の森に入るのか。
カシャは感情を抑えきれなくなって立ち上がり、私の前でボロボロと涙を流した。
「人命がかかった判断を迫られる状況を想像できますか? 心が押しつぶされそうで、世界が狂ってしまったのか、私たちが狂ってしまったのか分からなくなる時があります」
1カ月後、カシャは渦中の人になる。
国境での人道危機を地元テレビで訴えた彼女に対する批判が公共放送など政府寄りのメディアで沸き上がり、SNSで個人情報をさらされるなど大炎上したのだ。見なかったことにできなかった彼女は、分断を深めるポーランド社会の亀裂に落ち込んでいた。
地元住民カシャは国境の人道危機を涙ながらに訴えた=10月26日、ハイヌフカ
シリア人3人が救助されたとき、大雪が降っていた=12月1日、ハルカビチェ
年が明けた22年2月、ロシア軍のウクライナ侵攻が始まる。
ポーランドや欧州連合(EU)は、南のウクライナ国境で戦禍から逃れた避難民を温かく迎える一方、北のベラルーシ国境では中東の戦禍を逃れた難民申請希望者を押し返し続けた。それが本作で描かれたもう一つの現実だ。
時とともに密入国者は大幅に減ったものの、国境の危機は終わったわけではない。
ベラルーシ国境には高さ5.5メートルの鉄条網付きのフェンスがつくられたが、ポーランド国境警備隊によると、24年も4月上旬までに密入国の試みは4500件を超えている。
ウクライナ侵攻でロシアと欧州が激しく対立するなか、危機は別の国境にも波及した。
侵攻を機に北大西洋条約機構(NATO)に加盟したフィンランドに23年11月、隣国ロシアから入国する中東やアフリカからの難民申請希望者が急増したのだ。フィンランド政府はロシア国境を閉鎖し、バルト三国は24年1月、ロシア・ベラルーシとの国境沿いに共同で防衛施設を構築することで合意した。ロシアに一方的に併合されたウクライナの東部と南部は、占領地域の境界で激しい戦闘が続く。
欧州を分断した「鉄のカーテン」が形を変えて復活する前兆だった――。後世の歴史家はベラルーシ国境の危機をそう語ることになるかもしれない。
※写真はすべて村山祐介撮影
【村山祐介 プロフィール】
1971年東京都生まれ。1995年三菱商事株式会社入社。2001年朝日新聞社に入社し、ワシントンやドバイに駐在。2020年にフリーになり、国境を越える動きを追う「クロスボーダー」をテーマに取材。21年からオランダ・ハーグ在住。アメリカ大陸を舞台にした移民・難民を追った取材で2018年にATP賞テレビグランプリ・ドキュメンタリー部門奨励賞、2019 年にボーン・上田記念国際記者賞、2021年にノンフィクション書籍「エクソダス アメリカ国境の狂気と祈り」(新潮社)で第43回講談社本田靖春ノンフィクション賞を受賞。
ロシア軍のウクライナ侵攻前後の世界を描いた『移民・難民たちの新世界地図――ウクライナ発「地殻変動」一〇〇〇日の記録』を24年7月に新潮社より出版予定。